月刊『日本橋』2014年7月号 No.423

今月の特集 ■日本橋でランチ

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今日のランチ、なに食べよう……。
そんな迷えるあなたに、今号の【ランチ特集】が強い味方になります。
味の名店が集う日本橋には、和・洋・中のおいしいランチメニューが勢揃い。
おひとりさまはもちろん、同僚との気軽な食事や、友人・家族との会食、ビジネスでの利用など……、シーンにぴったりのお店が見つかるはず。さぁ、日本橋のランチを楽しみましょう!

【今月の表紙】
一勇斎国芳
「文覚上人 初名遠藤武者盛遠」
大判 弘化元年(1844)頃 丸屋清次郎版

7月号【連載】人物語
中根喜三郎さん

世界に誇る日本の釣り文化、江戸和竿

魚がかかったときの手応え“魚信(あたり)”。このわずかな振動が竿を伝い手に届く感覚が、釣りのなによりの楽しみと釣り人はいう。「魚信の振動のやわらかさの好みは人それぞれ。客の好みにピッタリと合った釣竿をつくるのが、竿師の一番の仕事」と語るのは、伝統的工芸品“江戸和竿”の竿師、四代目竿忠(さおちゅう)の中根喜三郎さん。初見の客には、どんなに遠方でも必ず直接会って話し、客の釣りの好みを掴んで竿を制作するという。

和竿の素材は竹。江戸和竿の舞台となる東京湾は、海釣りだけでなく、多摩川など河口での釣りもでき魚種が豊富。そこで、江戸和竿はハゼ釣りならハゼ用の竿と、釣りの対象となる魚種ごとに竿を作るので、使用する竹も目的に適した質のものを全国各地から仕入れる。竿の先端は背美鯨の髭を使う場合もあり、また象牙、鼈甲と大人の趣味にふさわしい一級品の素材を使用。そして、120もの工程を経て、約三ヵ月間かけ江戸和竿は完成する。「仕上げの漆塗り以外、ほぼすべてが下仕事。一見しただけではわからない下仕事を大切にすることが、竿が客の手に渡った何十年後かに違いが出てくる要となるのです」と、中根さん。

曾祖父・忠吉が竿忠として世に名を馳せてから、祖父、父と技を受け継いできた。中根さんは、竿忠の三男として昭和6年に本所で誕生。幼い頃から祖父、父の仕事を小刀で竹を削る程度は手伝ったというが、長男一子相伝で伝わる和竿の作り方は全く教わっていない。「兄がいましたので、自分が竿師になることなんて一切考えられないことだったのです。その運命が変わったのは、東京大空襲でした」(続きは本誌で!)

7月号【新連載】東京湾今昔深訪

魚河岸が日本橋の北詰めの袂にあったのは、昭和10年まで。徳川家康が江戸に新しい都市をつくった草創期から、ここ、日本橋には江戸前・東京湾で獲れたピチピチと新鮮な魚介類があつまった。

その魚河岸の発端は、家康に献上するための“白魚”の残りを橋の袂で販売したことにはじまる。すると、佃島沖や大川(隅田川)での白魚漁が、江戸時代以降の江戸前・東京湾での漁業のさきがけ、となるのか。左ページの浮世絵の左奥に、2〜3月頃がシーズンの伝統的な四つ手網を使った白魚漁が描かれている。かがり火を焚いてのこの漁の姿が、江戸では早春の風物詩だった。

盥(たらい)を覗き込むのは、柳亭種彦著『偐紫田舎源氏』の登場人物たちだが、好奇のまなざしの先には四つ手網で獲れたのか、うなぎとなまずが泳いでいる。江戸前・東京湾、そして界隈の河川では、うなぎがよく獲れ、江戸中期に醤油・味醂が普及してからは日本橋でうなぎ丼が発祥したりと、うなぎの食文化が花開いた。“江戸前”といえば、うなぎを指したほどだ。このように、江戸前・東京湾の魚介が集った日本橋では、すし、天ぷらなどさまざまな食文化が育った。

江戸前がどこまでの海を指すかは異論があるが、ここでは現代の東京湾と海域を同じとしよう。千葉、東京、神奈川に面するこの海は、釣れない魚種の方が少ないといわれるほど、豊かな漁場。月刊日本橋主催の〈豊年萬福塾〉では、昨年から4回にわたり東京湾の恵みを伝える講演会を開催したが、千葉県富津からはあさり漁、東京都品川からは遊漁船でのキス釣り、神奈川県小柴からは穴子漁のそれぞれの漁師さん、船頭さんに古から現在にいたるまでの東京湾の漁業、環境、そして文化について話していただいた。

豊かな漁場があったからこそ、江戸・東京という大都市が形成され、また大都市があったからこそ、漁業だけでなく“釣り”という趣味の世界も花開いたようだ。東京品川の遊漁船の船頭さんからは、乗り合い船で気軽に舟釣り、そして釣った魚を天ぷらなどで味わい楽しめる仕組みが古くから存在する国は世界中を見ても日本だけ、ときく。趣味の世界には、やはり経済的な余裕が必要だ。船頭さんを育てる旦那衆が、江戸・東京には存在したため支えられた仕組みといえるだろう。

釣竿ひとつとっても、江戸時代から“江戸和竿”という精巧極める竿があり、実用性、審美性どれをとっても世界に類いない完成度を誇る。魚種の多彩な東京湾に対応し、その竿はキス釣りならキス用、ハゼ釣りならハゼ用と、釣りの対象魚ごとにつくられる。これも職人を贔屓にした旦那衆が育てた釣り文化だが、そもそも釣りを趣味として始めたのは、江戸幕府の中で閑職にあたった武士たちであった。

『何羨録(かせんろく)』——。釣りに耽った旗本・津軽によって、享保8年(1723)に書かれた日本最古の釣指南書。江戸前を舞台とした「釣場編」「道具編」「気象編」で構成されており、魚類生態学、江戸のバイオテクノロジー、江戸の気象学など多角的な視点が盛り込まれ、完成度の高さは後世の指南書の追随を許さないという。1653年に英国で刊行された『釣魚大全』が世界の釣人のバイブルであるのに対して、『何羨録』はあまり世に名を知られていない、と『江戸釣魚大全』の著者長辻象平はいう。

それならば、と魚河岸のあった日本橋視点で、『何羨録』の舞台の江戸前と、現在の東京湾の奥深さを伝えようと立ちあげたのが、今号からの新連載『東京湾今昔探訪』だ。毎月少しずつ、この世界有数の大都市・東京の目前に広がる豊年萬漁の海を紹介していこう。

【不定期掲載】いらっしゃ〜い! のコーナー

月刊『日本橋』編集部にいらしてくださった方を紹介する「いらっしゃ〜い」のコーナー。今月もたくさんの方がいらっしゃいました。皆さんナイススマイルです!

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