日本橋よろず帖 〜橋・まち編〜

日本橋のあんなこと、こんなこと。豆知識をご紹介。

【日本橋のはじまり】

創業:1603年
日本橋がはじめて架けられたのは、征夷大将軍・徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。『慶長見聞録』には、「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時節、新らしく出来る橋なり」とある。

【擬宝珠】

擬宝珠は、江戸城の見付御門以外は、江戸では日本橋・京橋・新橋のみに許された格式高いもの。天下の名橋である印として誇りにした。『享保撰要集』には、10個あった擬宝珠のうち、男柱の3個、中柱の1個には万治元年の年号。他は、正徳2年(1712)1個、元禄12年(1699)1個、年号のないもの4個と記載がある。万治元年の擬宝珠のうち一つは、現在、漆器専門店の黒江屋の店のウインドウに展示されている。

【高札場】

日本橋の南詰めの西側、現在の花の広場には、「高札場」があった。幕府が法度・掟書・犯罪者の人相書などを板面に記して民衆に示した。高札の文字は、民衆が読みやすいよう、仮名文が用いられた。現在は、かつての高札を象った日本橋由来記の碑が建つ)。

【さらし場】

日本橋の南詰め東側。現在の滝の広場は、晒し刑に処される罪人を民衆に晒す場所であった。この付加刑に処されるのは、心中の死に損ない、女犯の所化僧、主人を殺傷した者が中心だったという。早朝に小伝馬町の牢を出て、さらし場の小屋につながれ、暮れの七ツ時(16時)に戻された。

【魚河岸】

創業:1573年
日本橋北詰めの東側は、「一日に千両の金が落ちる」といわれた巨大な魚河岸があった。天正年間(1573〜92)、幕府に献上した白魚の残りを売りさばいた市が始まりとされる。この魚河岸は、関東大震災後に築地に移転するまで、江戸と東京の台所を支えた。現在は、久保田万太郎揮毫の「日本橋魚市場発祥の地」の石柱、乙姫の像が建つ。