月刊『日本橋』2014年4月号 No.420

今月の特集 江戸の花見

毎年、開花はまだかと日本中が楽しみにしている花見。
現在の花見のスタイルは、江戸時代からはじまった。江戸の人々は、どこに花見に出かけて、どんな花見弁当を食べ、どんな遊びをしていたのだろうか。江戸時代の花見の様子を覗いてみよう!
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◯江戸中にあった花見名所花見
江戸の代表的な花見の名所は、東は隅田川堤、北は飛鳥山、南は品川御殿山、西は中野、さらに西郊に玉川上水沿いの小金井。その他にも、江戸中に桜の名所があり、人々はワンシーズンにたくさんの名所を巡ったようだ。通油町(現在の日本橋大伝馬町)にあった版元・鶴屋は、文政8年(1825)に「新版 狂歌江戸花見双六」を出版。江戸中の桜の名所を巡りながらコマをすすめるこの双六の“ふり出し”と“上がり”は日本橋! ソメイヨシノが圧倒的に多い現代とは異なり、山桜にはじまり糸桜、緋寒桜、虎の尾桜など、さまざまな品種が見られるのが楽しい。

新版狂歌江戸花見双六2☝クリック

◯江戸の花見弁当
むらさき花見に欠かせない花見弁当。その内容は、『料理早指南』(1801刊)に記載されているが、上級の重箱にはアワビの青わたを入れて作った〈わたかまぼこ〉や、早わらび、蒸かれい、さくら鯛など高級食材を使ったメニューが。節約料理の重箱にも、さよりかば焼、わらび、きのめあえはたまた田螺など、春の食材が詰まっており、江戸時代の人々は豊かな味わいの花見弁当を楽しんでいたようだ。

◯日本橋の桜の名所は?
日本橋滝の広場、日本橋さくら通り、浜町公園、人形町通り、箱崎河岸緑道といった日本橋の花見名所。今年も満開の桜が咲き誇り、江戸町民さながら花見を楽しめそうだ。桜イベントも多数開催される日本橋で、春の宴を開いては。
(画像:国立国会図書館デジタルコレクションより)
●特集はまだまだ続きます。ぜひ本誌を手に取ってご覧ください!
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【目次】
■読み物
どうなってるの? 江戸のこと日本橋のこと217/M・シェレンバウム
シンボーの日々是好日170/南伸坊
江戸平成川柳歳事記《山吹》/松本充代
粋人有情《ともだちひゃくにん》/井坂洋子
其角堂コレクション《腰間を飾る武士のアクセサリー(二)》
日本橋食べもの歌留多(13)向笠千恵子
気ままなスケッチ/小川幸治
江戸っ子亜土ちゃんの日本橋ブギヴギ(11)

■人とお店
常連さん〈竺仙〉
新お徒歩日本橋繁盛記(136)/一色九月
逸品《安兵衛》
人物語241《結城孫三郎》

■ルポ
明治の日本橋区 今月の事件簿《四月の巻》/林丈二

■インフォメーション
豊年萬福塾
日本橋美味しい街めぐりスタンプキャンペーン
お江戸日本橋マップ
三越・髙島屋
いらっしゃ~いのコーナー
4月のGALLERY&THEATER
かわらばん
日本橋らいんあっぷ
第27回野菜くだものツアー
誌上いちば

■エトセトラ
今月のプレゼント
4月の西洋占星術/ルネ・ヴァン・ダール・研究所
旧暦ごよみ/暦ことば
こちら編集部・おたより
今月の表紙/悳俊彦・目次

【今月の表紙】
一勇斎国芳
「東海道五十三次 四宿名所」 大判 天保(1830〜43)の前期頃

4月号【連載】逸品
安兵衛 おでん 各種

安兵衛のカウンター越しに見える、ぐつぐつと煮えるおでん鍋。「うちのおでんは、いわゆる関東風の濃い口醤油のおつゆではないんです。でも、関西風ほど薄味でもなくて。言うなれば、安兵衛風かしら(笑)」と微笑む、女将の岩﨑恵さん。創業当時から人気のおでんは、およそ30種類が品書きに並び、大根、こんにゃく、半ぺん、昆布に玉子に竹輪といった定番に加え、鶏ひき肉を包んだキャベツ巻きや、油揚げに白滝・玉ねぎ・干椎茸・人参・鶏肉・うずらの卵をいれた“袋”など手作りの味も。ちなみに、“すじ”は牛すじではなく、関東らしく魚の“すじかまぼこ”。コリコリとした食感がたまらない。鰹節と昆布の合わせ出汁が利いた風味豊かなつゆが具材にほどよく染み込んで、身も心も温まる、やさしい味わいだ。(つづきは本誌で!)

4月号【連載】人物語 十二代目結城孫三郎さん

江戸糸あやつり人形結城座、旗揚げ380年

20本近い細い糸で操られる人形。人形遣いは、片手に〈手板〉とばれる日本独特の操作板を持ち、もう片方の手で糸を動かす。物言わぬ人形は魂が宿ったかのように、様々な動作、繊細な表情を見せる——。 江戸時代、庶民の娯楽として人気が高かった〈糸あやつり人形〉。結城座は寛永12年(1635)に初代・結城孫三郎が江戸葺屋町(現・日本橋人形町)で旗揚げした一座で、国の記録選択無形民俗文化財に選定、また東京都無形文化財にも指定されている日本唯一の糸あやつり人形劇団だ。現在、座長を務めるのは十二代目の結城孫三郎さん。昭和18年に十代目の次男として生まれ、初舞台を踏んだ4歳の頃から、踊りに歌舞伎、能や狂言まで、芸事の英才教育をほどこされた。(つづきは本誌で!)

4月号【連載】江戸っ子亜土ちゃんの日本橋ブギヴギ 11話

ウフフ♡ ヤッタネ

東京の中心は「ドコダロオ?」ということで、小学五年生の時、友人同士でケンカになったことがあります。
私はお江戸日本橋の下を流れている〈日本橋川〉の流れに沿って建てられた家で生まれ、育った事情もあって、「日本橋派」です。その上、両親が日本橋川を自分の家の一部のように話すので、余計、日本橋こそ東京の中心でいてほしい。
「バーカ、東京の中心は宮城に決まってるさ、天皇陛下が住んでるんだもん!」
と、言う「皇居派」が「日本橋派」とまったく同数だったことが悲劇の始まりで……エート、むしろ喜劇のというか、悲喜劇の発端で、十〜十一歳の小学生の間で、ちょっとしたニラミ合いの空気が流れたこともありましたが、昼休みも兼ねたお昼ゴハンのお弁当を食べ終わってみると……〈えーと、何が原因でモメてたんだっけ?〉という、ニラミ合った両方が何でモメてたのかよく分かっていない有様。結局のところは、毎度おなじみの、お昼ご飯寸前ギリギリの時になると……意味もなく、理由もなく、両者共々〈お腹空かせた性八ツ当リ的発作現象〉を起こしただけのことで、お腹さえゴキゲンよくなってしまえば、私たちは元に戻って仲ヨシ小ヨシのクラスメイトという訳。お昼休みの時間が終わる頃には、クラスの全員……といっても二十人に三人ほど足りないというコヂンマリとしたクラスメイトたちでしたが、みんな仲よく、何もかも、とてもよく理解できたフリをしながら六年生に進級し、ついには卒業までできたのですから、これはもう、私の小学校時代は、東京一ステキだったと、今でも本当にそう思っています。(つづきは本誌で!)

4月号【連載】日本橋食べもの歌留多 第十三回

 江戸は水の都であった。海、川、運河が市中に入りこみ、産業道路の役をはたしていた。現代では暗渠になったり、埋め立てられて半ば姿を消してしまったが、「橋」のつく地名をたどっていくと、往時の水上交通網がよくわかる。  江戸の真ん中つまり日本橋界隈は、関東平野の奥の奥とも舟運で結ばれていたから、川越のさつま芋、栃木のかんぴょう、銚子や野田の醬油といった名物を筆頭に山の幸・里の幸が運ばれてきた。なかでも醬油は佃煮と縁が深い。  さて、日本橋のすぐ先の東京湾は、とくに名前が付いていたわけではなく、たんに江戸前と呼ばれていた。そして、魚介類がいくらでも獲れた。たくさんの河川が栄養分を補給してくれるので、プランクトンが発生しやすく、それを餌にする小魚や貝が増え、さらにそれを食べる魚が泳ぎまわり、そのすべてが漁師の獲物になる──と、とてもいい具合に食物連鎖が循環していたのである。  江戸前の漁師のなかでも存在が派手なのは佃島の漁師だ。なにしろ、もともとは徳川家康に大坂の佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)から呼び寄せられたという経歴だし、今でこそ佃大橋を渡ればすぐだけれど、昭和三十年代までは渡し船で連絡する本当の島だった。江戸川柳には「江戸の図に点をうったる佃島」とあるし、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「武陽 佃島」にも緑ゆたかな小島が描かれている。立地が風流なうえ、獲れた魚を日本橋の河岸に持ち込むにも便利だったわけだ。  魚河岸では鯛、すずき、ひらめなどが高値で取引されるいっぽう、鰺や鰯などの大衆魚は庶民の口に入った。だが、いくらでも網にかかってしまう小魚や海老、貝類はどうしたらいいのだろう。小さすぎて市場には出せない。それに、冷蔵庫も氷もない。だけど、なんとか保存したい……。  そんな「もったいない」の発想から佃煮は始まった。最初は塩煮だった。かなり塩辛かったと思われるが、保存性はよかった。だが、売り物になるほどではなく、漁師の自家用常備おかずといったところだったろう。(つづきは本誌で!)