月刊『日本橋』 2015年8月号 No.436

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創設125周年 日本橋倶楽部

 

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明治23年(1890)、欧米に見習った社交クラブとして創立された日本橋倶楽部。現在に至るまでには、幾度かの建物の改築や移転を経ている。倶楽部の歴代の建物と共にその変遷をたどる——。

日本橋倶楽部創立当時の日本橋区は、東京市15区のうちで一番小さく、面積は約88万坪ほどだったが、市中の有名な大商店はほとんど日本橋区に集中、銀行も十中八九は日本橋に本店を構えており、江戸以来の商業の中心地であることに変わりはなかった。よって名士紳商の往来は盛んで、社交機関が大なり小なり必要になっていたのだ。じつは、倶楽部ができる以前から日本橋区内の名士紳商たちは親睦を深めていたが、日本橋区内には会合を開くために適当な場所が無く、そうした状況から、社交を目的とした公会堂の建設と共に、倶楽部結成の話が生まれたようだ……

 

文学のなかの日本橋倶楽部

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125年という長い歴史の中で、いくつかの文学作品にも日本橋倶楽部の名が見受けられる。その一部を紹介——。

森茉莉(1903—1987年)

『甘い蜜の部屋』

三島由紀夫が「官能的傑作」と評した森茉莉の長編小説『甘い蜜の部屋』。溺愛されて育った美少女モイラが、長じて男たちを次々に虜にし、破滅させていくという美しくも残酷な物語。大正時代の日本橋倶楽部のエピソードが。

〈林作はその日、日本橋倶楽部にいて、ふとモイラの幼い姿を目に思い浮かべていた。その家には広間から別の広間に通ずる二間ほどの廊下があり、そこの真ん中に、亀戸天神の境内にある太鼓橋のように高く急な勾配になったところがある。遠い昔、林作はモイラにその上を渡らせて喜ぶ顔を見ようと、予約をしておいて、モイラを倶楽部に伴れて行った〉

〈モイラは林作の着けている仙台平の袴の襞にさわり、微かな音を楽しんでいた。 その日、日本橋倶楽部であった宴会から帰った林作は、モイラの好む仙台平の袴を着けた儘、モイラの相手になっていた。モイラは仙台平の袴を着けた林作を、幼い頃からとくに好いていた〉


倶楽部 長老鼎談 倶に楽しむ部

 

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会員歴が50年前後と、長きにわたり倶楽部活動を続けてきたお三方に、日本橋倶楽部での思い出を語り合っていただいた——。

齊藤今朝雄さん(大正15年生まれ/昭和34年入会)
三輪雄次郎さん(大正13年生まれ/昭和31年入会)
松岡肇さん(昭和5年生まれ/昭和48年入会)

(編集部)——三輪さんはおじい様とお父様も日本橋倶楽部の理事長を務めていらっしゃいますが、幼い頃は浜町の倶楽部の会館にも行かれたそうですね。

三輪 朧げながら思い出すのは、中学生の頃でしょうか。白亜の殿堂とよばれた日本橋倶楽部の二代目会館は隅田川沿いに建っていて、鉄筋コンクリート造りの近代多目的ビル。当時は、家族でよく遊びに行ったものですが、なんといっても魅力は、地下食堂の名店街で、すし、天ぷら、うなぎなど常時5〜6軒の専門店があり、自由に親父のツケで食べられたことでした(笑)。同じく子どもの頃の楽しみのひとつは、毎夏に行われる隅田川の花火大会。でも、われわれ若手は乾杯、乾杯で、それどころではありませんでしたね。

松岡 僕も子どもの頃に行きました。妹の日舞のお披露目会のために、自宅のあった八重洲のさくら通りから浜町まで、円タク(一円タクシー)に乗ってね。その時、母が円タクを30銭まで値切っていたのをよく憶えています。

——倶楽部での交友を通じてのエピソードを教えてください。

松岡 僕が入会した当時のお歴々は、個性派揃い。榮太樓總本鋪の細田修三さんが理事長で、とらやの黒川光朝さんや、横山町のメリヤス問屋の宮入正則さん……そして忘れられないのが、木屋の常務でいらした林寿男さん……

【今月の表紙】
雨乞い小町 大判
天保(1818〜43)初期 加賀屋版

【8月号連載】シンボーの日々是好日 第186回 南伸坊

くろちゃん(うちのネコ)の両目が、まんまるである。その視線は、穴からつき出た人間の腕を凝視しているわけだけど、その腕は私の左腕だし、穴は血圧計の穴なので、つまり私が、朝起きて、血圧計で血圧の上の方と下の方、それから一分間の脈搏などを計っているところなのだ。

ところが、くろちゃんは、壁の穴から突き出てきた人間の腕のような形をした奇怪な生き物(初めて見た)を見ているみたいな真剣な目なのである。

「だからネ、これはしんちゃんの手でしょ。奇怪な生き物でも、はじめて見る魔物でもない。ホラ、見てみなさい、ずーっと続いてるだろ? しんちゃんの胴体まで」

と、日本語で事を分けて説明したところで、くろちゃんは大体、日本語を理解しよう、とする向上心の持ちあわせがもともとない……(続きは本誌で!)

【8月号連載】人物語 第257回 中田克哉さん

「あっという間の50年でした」。八重洲地下街株式会社取締役社長・中田克哉さんは、穏やかな笑顔で話し出した。「ヤエチカ」の愛称で親しまれる八重洲地下街が誕生した昭和40年、中田社長は大学4年生。卒業後、八重洲地下街株式会社の関係会社であるヤンマー株式会社に入社してから、大阪本社への転勤があったものの、東京支社勤務が長く、ヤエチカと共に歩んできた。

昭和19年島根県生まれ。幼い頃は松江城の周辺を駆け回り、8歳で東京杉並に移ってからも大宮八幡宮の周辺の防空壕を探険する活発な少年だった。中学で卓球部、高校では男声合唱のグリークラブに所属し、パートはバリトン。早稲田大学商学部進学後は、現在まで続く趣味である街歩きを始める。2、3人の友人たちと毎回行き先を決めて散策。目的はなくとも、古本やレコードをチェックすることは定番だった。現在もお目当ての本を探しに出かけたり、奥様と食事を楽しんだりと、街へ出て情報収集は欠かさない……(続きは本誌で!)

【8月号連載】逸品 古樹軒 ふかひれ点心 (小籠包)

蒸篭の蓋を開けると、 立ちのぼる白い湯気と共にあらわれる、しっとりと艶のある小籠包。ただの小籠包ではない、中華の世界で名を馳せるふかひれ製造メーカー〈中華・高橋〉の直営店である〈古樹軒〉特製の“ふかひれ小籠包”なのだ。冷めないうちに、そっと箸でつまんでレンゲの上に。繊細な薄皮を破るとジュワッと溢れ出す熱々のスープをすすったら、つづいて皮と餡を一緒に……(続きは本誌で!)